作家 小林大悟のことばメモ。毎週金曜更新

【ラベル説明】
「制作の外縁」・・・制作や表現活動に関するはなし
「雑文」・・・思ったこと、つれづればなし

【作家HP】

2019年5月24日金曜日

裏で手を引くのは誰?

物事が大きく動く時は、どうしてか何もかも一斉にわっと押し寄せてくる事が多い。もう少し前に来ていたらこちらもだいぶ余裕があったものを何でまた今なのだ、なんてことは往々にしてある。こちらの貴方だけならまだしも、そちらの殿方もあちらの貴婦人も皆計ったように一挙に押し寄せてくる。

原因は何か。物事には「周期」があるのかもしれない。もしくは一羽の蝶の羽ばたきが地球の裏で竜巻を呼び起こすような因果、例えば朝のゴミ出しを忘れてしまった事が巡り巡ってもたらした「結果」なのかもしれない。あるいはそこまで頻繁に起きていない事を、私が勝手によくある事だと「思いこんでいる」だけかもしれない。これが一番怪しい。

普段の私は物事を深く考えないためここから先は「不思議だなぁ」でおしまいにする。最近の私は少しだけ考えてみる知恵が備わったので、一旦立ち止まってみる。微小な脳をこねくりまわすと新たな仮説が浮かび上がった。もしかすると計ったように押し寄せてくるではなく、実際に彼奴等は口裏合わせてやってきているのではないか。そうなると貴方其方殿方貴婦人八百神魑魅魍魎エトセトラエトセトラの誰かあるいはその後ろに、扇動者たる「黒幕」がいるのではないだろうか。

「黒幕」では印象が薄ぼんやりしているので、全身黒づくめの上に黒いマントを羽織り黒いハットを被った大柄な怪人のような姿でも想像しておこう。ほうほう、身なりは中々立派だがこんな小市民に嫌がらせをするとは中身はそうとうみみっちいようだ。きっとこの場末の文章にも隅から隅まで血眼になって目を通しているのだろう。だからこそ私はここに宣言しておく。たとえお前の企て通りに事運び、貴方其方殿方貴婦人八百神魑魅魍魎エトセトラエトセトラの波に押し潰されそうになろうとも、私はここへ悠々と他愛ない文章を書き落としてみせる、と。

私にしては珍しく頭を使いまた理不尽へと抗う姿勢をみせてしまった。この行動がもたらす余波は時期に日本列島を曇らせ雨季をもたらすことだろう。その時は皆さま、どうか傘をお忘れなく。


お知らせ
4/19の記事に画像を追加しました。

2019年5月17日金曜日

ミュージアムショップの蒐集家

1週間お休みどころか3週空いてしまいました。

最近のミュージアムショップはどこも充実している。ミュージアムショップとは読んで字の通り美術館に併設されたお店のこと。美術館の趣旨にあった関連商品や「オシャレでアートな商品」を扱っている。企画展示に合わせて会場限定商品が作られ並んでいることも珍しくない。定番はポストカードやクリアファイルであるが、凝ったショップだとハンカチやTシャツ、ぬいぐるみ、お菓子など。時々「どうしてこんなグッズを作ったのか」というものも混じっている。そんな様も含め眺めていてとても楽しい。

とはいうものの、私は会場限定商品の類はあまり買わない。例えどんなに気に入った作品と出会ったとしても、意匠された商品が欲しいか(≒使用するか)どうかはまた別の話。時々どうしても気になった作品のポストカードを買うことはあるけれども、気になった作品に限ってポストカードになっていないことの多いこと。ラインナップの狭さに文句をつけるのも「玄人」を気取っているみたいなので嫌なのだが、とにかく私の一押しの多くは「売れ線」ではないらしい。結果ミュージアムショップで1番よく買うのは画集である。よりによって1番重くてかさばる商品である。

限定商品へは食指は動かないが展覧会「関連」商品に惹かれることはよくある。関連商品とは、展示作家や展覧会テーマに関係した国や地域の物産である。正直ほとんど展示に関係ないこじつけ商品もある。しかし関係するしないに関わらず扱っているものは大抵質がよい。これは困る。というのも置物や玩具に弱い私はいとも容易く立ち往生してしまう。商品(を介した自分自身)との対話がはじまる。展示作品より熱心にみている事もある。

質が良いということは値段もそれ相応なわけで、大抵は「展覧会と関係ないから」と自分を律し(そんなこと鼻からわかっているのだけど)さようならをする。するとどうなるか。時々ふとした時に思い出してしまうのだ。そして後悔する。「あの時無理してでも買っておけば」と。大抵は後から探せば通販で買える。何ならそのつもりで商品名もメモしているのだが、後から買い揃えるのは何か違うのだ。見かけたときに買わないとなんだか具合が悪いのである。

そんなわけで美術館に行くのがほんのちょっぴり怖い。そして不思議なことに「かかってこい」と覚悟を決めて赴くとさしてよい出会いはなく、何の気なく覗くと運命的な出会いが訪れるものなのだ。とはいえ見事「保護」した品物たちを眺めても出会った場所(展覧会)の記憶はあまり蘇らず。それらはもはや思い出の品ではなく「やはり良いものだな」と無い口髭を捻りたくなるほど悦に浸りたくなるほどの作品なのである。もしかすると展示作品に感化され湧き出た美術蒐集欲を埋める代償行為なのかもしれない。だとすれば散財どころか安いものじゃないか!

2019年4月19日金曜日

ふわふわの上


地元に大きな国営公園がある。家からも対して遠くないのだが、さりとて小学生が毎日遊びに行けるほど近くもない。なので入場料が無料になる祝日や施設内の大型プールが解禁される夏休みに訪れる、ちょっとした行事会場の認識だった。

園内にはだだっぴろい野原もあれば充実した遊具場までさまざまな施設が入っていた。1日では回りきれないほど広い。中でも子どもに人気だったのがふわふわドーム。丘のようになだらかにこんもり盛り上がったそれは、中に空気が入っていて、ドームの上によじのぼってトランポリンのようにぴょんぴょん跳びはねることができた。これが楽しくないわけがない。なだらかな稜線を描いた丘のてっぺんはとりわけよくはずむ。身長の何倍も空高く跳べるため、丘のてっぺんは大抵上級生男子グループが陣取り、器用に空中で前転したりして遊でいた。

そんなふわふわドームが造形作家の高橋士郎氏の作品であると知ったのはつい最近のこと。建築の歴史にまつわる展示をみていたときに、地元の国営公園の紹介と共に見覚えのあるドームの写真と見覚えのある名前の設計者名が目に飛び込んできたのだ。当然、どんなものにも設計した人がいる。著名な作家がつくった遊具などあちこちにある。それでも私にとっては「ただの遊び場」でしかなかったドームが、まさかの名前を知っている人による造形物だったことは驚きだった。ふわふわドームとは幼少の私が何も考えずにぴょんぴょこぴょんぴょこ跳んでいた遊具で、それ以上でもそれ以下でもなかったのに、まさか今になって認識を改める事にするとは。

私はよく「地元の方は美術館に恵まれていない」などと人に話してしまうのだが(実際そんな事はないのだけれど)、よくよく目を凝らすと思わぬところに「作品」は潜んでいるものである。とはいえ思いもよらぬ形で「アーティスト」ないしその「作品(制作物)」に触れていることもあるのだ。まるで手のひらの上で踊らされていたかのようである。ふわふわドームの場合は、踊らされていたというよりとびはねていたのだが。そして誠に残念なことに私は今あのドーム以上にふわふわと生きている気がしている。いずれは丘のてっぺんのように高く跳ねられれば良いのだけれど。


-お知らせ-
・先週の記事に挿絵を追加しました。
・次週は4/26 はお休みです💤